(発行・2008/4/15)「電話相談を受けて」より転載
被害者に落ち度はない
強姦事件がニュースになると、人々は必ず被害者の行動を取り上げ、こうしたのが悪い、ああしたから被害にあったというように言い立てます。そしてそれは「落ち度」とされて、犯罪者の免罪に利用されます。
そもそも、落ち度とは何でしょうか。大金を持ち歩いていて盗まれたとしても、その被害者は不注意だったと言われるかもしれませんが、持ち歩きしたことを落ち度として非難されることはないでしょうし、ましてやそのことが加害者の罪の有無を左右することはありません。また「目の前に大金が盗んでくれとばかりにあったから盗んだ」という加害者の言い分が、犯罪の理由として通用することもありません。
ところが強姦事件では、加害者の車に乗ったり一緒に飲酒したりといったことが重大な「落ち度」として言い立てられ、そのことが犯罪性すら隠してしまうのです。「誘いにのってきたから強姦した」という加害者の言い分がまかり通り、その犯罪を相殺してしまいます。
車に乗った女はセックスもOKだとか、一緒に飲んだらセックスして当然という、その前提自体がそもそもおかしい話です。こういう認識は、もともと強姦者のために組み立てられた決まりです。だいたい車など皆が乗るものです。ドライブして食事して恋愛が発展して結婚してピースサインで微笑んでいる人々はいくらでもいます。
誘われて車に乗ったとか、一緒に飲酒したとかは、社会ルールを破ったことではありません。それがなぜ「落ち度」とされるのでしょうか。 たとえば、信号を無視して横断し、事故にあった場合では、信号無視は被害者の落ち度と捉えられて、加害者の責任の軽減に影響します。なぜなら信号無視は社会ルールを破る行為だからです。それでも、加害者は加害者です。信号無視の歩行者は轢いてもかまわないという社会通念はありません。
ところが強姦の場合は、違います。後から考えればあの時そうしなければ良かったというようなことが、あたかも社会ルールを破ったかのように「落ち度」とされ、責任を問われ、攻撃にさらされるのです。犯罪の責任は加害者にあるという社会通念が強姦に対してもあれば、被害者の行動よりも加害者が何をしたかが第一義に問題とされ、厳しく問われるでしょう。