(発行・2001/8/15)より転載
女性に対する暴力の問題に取り組むとき
セクシャル・ハラスメント、ドメスティック・バイオレンス〝男も被害にあう〟という落とし穴
セクシャル・ハラスメント、ドメスティック・バイオレンスという言葉がようやく社会一般に使われ始め、部分的にではあれ、女性への暴力が社会問題として認知され、顕在化してきました。セクシャル・ハラスメント防止のための研究会や、セクハラとは何かを知り解決を図るための各種の活動も、官民問わず目に触れるようになりました。また、この4月には、夫(事実上の婚姻関係を含む)からの暴力の防止と被害者の保護を図る、いわゆるDV(ドメスティック・バイオレンス)防止法が成立し、10月に施行されます。これまで家庭内の個人的なこととされてきた夫からの暴力が、初めて犯罪として認識され、処罰の対象となったのです。
すり替わる問題
しかし、このような動きの中で、女性にとって歓迎すべき一歩となるはずが、本質を捕らえ誤ったために、問題がすり替わるという事態が同時に起きています。誤りの中身は、被害者は女性だけではない、男も被害にあう、とする認識です。そのため、例えば前述のDV防止法の正式な名前は「配偶者からの暴力の防止及び被害者保護に関する法律」となっています(傍線は編集部)。夫からの暴力の問題に対する社会的支援体制作りで動き出したはずのものが、妻に殴られる夫もいるから、これは配偶者同士、夫婦間暴力の問題だとなりました。
また、女性たちは、ドメスティック・バイオレンスやセクシャル・ハラスメントの問題を、女性に対する暴力だと位置付けていますが、その反面、被害の防止を考える研究や活動の場において、男も被害にあっているという項目を忘れないことが、正当な議論に必要だと信じている傾向もあります。しかし、女性の受けている被害と、男も被害にあうという別の問題をなんら矛盾なく並べてしまう誤りは、女性に対する暴力とは何かの正しい認識があれば起きないことです。
もうひとつのごまかしは、被害者は女性のほうが圧倒的に多いから、つまりは女性の問題であるとして、数で解釈しようとすることです。多い少ないで比べることは、同質のものという前提の上でしか使えないことであり、初めから間違っています。
このように、女性への暴力を考え、その防止に取り組むとき、男も被害にあうことがあるという、男側からの発言を同じ土俵に乗せて一緒に検討することで、問題は大きくすり替わってしまいます。ここで断っておきますが、男は被害にあわない、というような話しをしているのではありません。女性が受けている被害を、男も受けているかのように扱うことの誤りを指摘しているのです。こうして問題の本質がすり替わることは、女性が受けている被害を抑圧し、解決への道を閉ざしてしまいます。
被害の根本は女性差別
男が被害にあうかどうかということと、女性の受けている被害の問題は根本的に別のことです。それは被害が起きている土壌の違いを理解することではっきりします。
夫からの暴力も、職場のセクシャル・ハラスメントも、その根本には女性差別の問題が横たわっています。現在、女性差別という言葉はまるで死語のような扱いを受ける場面にしばしば遭遇します。差別があるとしてもそれは限られた女性に対してのことで、自分は平等なところにいると漠然と思っています。しかし残念なことに、実際には、社会の中で女と男には歴然とした立場の差、上下の関係があります。更にやっかいなのが、差別を差別と思わせない「女役割(女とはこういうもの)」という、無意識の領域にまで刷り込まれた社会規範があります。女性への暴力は、こういった社会の構造から発生している問題です。
夫からの暴力
昔から、夫が妻を殴っても、それは妻が殴られるようなことをしたのであって、夫が妻を殴るのは当然のこととされていました。夫の妻に対する暴力は、妻をコントロールするための当然の手段として容認されていたのです。子供への暴力が〝しつけ〟の名目で当然のこととされていたようにです。なかには、暴力を妻へのしつけのためだと明言する夫もいます。そのため、妻が夫に殴られていてもそれは夫婦間の問題であり他人がとやかくいう事ではないと黙認され、妻に対しては、我慢と服従と機嫌を損ねないための努力が要求されました。夫の暴力に耐えかねて実家に戻った娘を、結局夫の元に送り返した親は少なくありません。このような絶対的社会的容認の中で、夫は妻に暴力をふるい続けているのです。一方、妻が夫に対して暴力をふるった場合には、そこに前述のような社会的容認などはなく、夫に我慢と服従を強いる世論もありません。あるのは妻への非難と攻撃です。
DV防止法の前文には「配偶者からの暴力の被害者は多くの場合女性であり、経済的自立が困難である女性に対して配偶者が暴力その他の心身に有害な影響を及ぼす言動を行うことは、個人の尊厳を害し、男女平等の実現の妨げとなっている」とあります。ここでは、男も被害にあうから「配偶者からの暴力」だと言いながらも、経済的自立が困難な女性の社会的立場の実情について触れ、その立場の不利・不平等な中でふるわれる暴力であるという、正当な現実認識を、結果的に述べています。
女性が職場に進出しているとはいえ、依然女と男の賃金格差はほぼ1対2です。夫に依存せざるをえないこうした力関係の中で暴力がふるわれているのです。また、夫と同等の収入があったり経済的自立ができている妻もいます。その妻は暴力を受けないかと言えばそうではありません。力関係の不平等が経済的なものだけなら、その点が解決すれば問題は消滅するはずですが、現実は違います。女性差別には、経済面の他に、夫に従属させる女役割が存在しています。「夫に殴られるようなことをしないのが良い妻だ」「夫を立ててうまくやるのが妻の役目」等々、役割意識は社会的規範として強い影響力を及ぼしています。夫の暴力はこのような女性差別の土壌に根差して生まれ、保護されてきたのです。
セクシャル・ハラスメント
職場の上下関係を利用した性的な強要行為があったら、それはセクシャル・ハラスメントだという理解が広まりました。しかし、被害の起きている根本的な原因は、単なる上下関係ではありません。職場においても女性に要求され押し付けられている、女役割に大本があります。例えば、男にとって、母親や妻が自分にお茶を入れるのが当たり前だから、職場でもお茶といえば女が入れるものだとしか考えつかないのです。同様に、男を支え、男に従うのが女の在り方なのだという、頑固な認識があります。その上に、女はどんなときでも男から性的対象に扱われるのを心待ちにしているものなのだという、社会を挙げての根強い意識があります。このような差別意識と社会的バックアップの中で起きてくる被害がセクシャル・ハラスメントの本質です。そのため、被害を訴えた場合、職場の上下関係の問題は認めながらも、被害者がどれだけ抵抗したかを問われるというような、的外れな判断が横行しているのです。
現在、この問題に対する取り組みを見ると、根本的な原因である女性差別の問題は抜け落ちて、職場の上下関係という一側面に焦点を当て、そこにのみ起因しているかのように捕らえて、問題がすり替えられることが発生しています。その結果、女性上司がいれば男も被害者になるだろうと推測をし、「男も被害にあっている」と言われれば、本来まったく質の違う話を、同じ問題であるかのように取り上げてしまう事態が起きています。
このような「男も被害にあっている」という男からの参入は、女性への攻撃であり、被害の原因を上下関係の問題に固定させるとともに、女性に対する暴力の問題の正しい認識を阻み、本質にせまる検討を妨害するものです。
別なことは別に考える
男も被害にあうということの問題と、女性への暴力の問題は別のことです。これまで述べてきたように、起きている土壌も背景も違います。男も被害にあうという話しを、女性の被害といっしょに認めることは、いかにも女性が男と同等の立場にいるかのように錯覚させ、力をイメージさせてくれますが、しかし、それは希望的幻想にすぎません。別なことは別なこととして分けなければ、問題解決へ向けた方策は的外れなものになってしまいます。それは被害を受けている当事者にとっては役に立たないばかりか、新たな不利益さえ生じてしまうことになります。